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ウオンテット [ブログ]

ウオンテットとは指名手配とでも訳すのでしょう。犯罪者のことではありません。

ブログの記事のことです。

書いて投稿してあるはずですが、どのブログに投稿したのか行方不明になっているのだ。

「表題も覚えていないとは」

多くの記事は外付けのハードデスクの中に保存されているはずだけれど、どこにも見当たらなくなっているのだ。

「記事が多すぎるということもあるな。これは」

これには困った。一時間くらい探し回ったけれどない。

「新しく記事を起こせばよいじゃないか」と思われる方がいらっしゃるでしょうが、新聞の記事を引用している。

「はてどなた様の記事を引用したっけ」引用した記事を記載しておかなくちゃならないためです。

内容はうっすらと覚えているのだが?

認知症でも起こしてしまったような雰囲気になってきた。

アイデア夜話 千と一夜の物語のプロローグです。 [ブログ]

                           プロローグ

千夜と一夜の物語はアラビアン・ナイトの「千夜一夜物語」の一夜に一話ずつ千日分あるということになっている。(実際はない。)この物語の成立を考えれば、元は千日分あったのかもしれない。伝承で伝えられていたものが、伝え、伝わり200年も後に本になったという経過のことである。伝承されている間に抜け落ちてしまった部分があるのかもしれない。

アイデアも一夜、一夜に考えたことを、試作したことを、経験してきたこと、中小企業の経営者並びに市町村の経済課の担当者、仲間やお得意さんメーカーや技術者と議論してきたことを、アラビアン・ナイトの様式に当てはめて1000日継続してみると面白いものに出会うことが出来るだろう。実際、そのような態度と姿勢で取り組んできた。(継続は力なり、参照)

課題から常に挑戦状を突きつけられているということである。新たな課題に対して今までの能力では到底太刀打ちできないものもある。そんなときは、自分のスキルアップを図らなければ解決できないし、適切なアドバイスをしてくれる人や組織の存在が必要になる。(私自身も電気に関することは普通の高校生レベルしかない。何とかなっているのは研究会のそちらの専門の人の協力があるからである。)

あるとき、地区の会議でそんな現象を目の当たりにした。いつまでたっても、両者が平行線のままである。会議の中で「有機のごみを堆肥化する」技術者が、その技術の紹介、普及のお願いに来た。(時代がそんなことに注目しなければならなくなってきたのである。)

彼の説明は専門的な用語が使われていて多くの人はなかなか理解できないと言う現象である。「ごみ処理の機械とその使用方法ならびに、そこに使用する酵素とその及ぼす影響について」である。

実際の写真などを用意してあれば理解が早いし、その取り組みを実践している農家と一緒にくればいっぺんで解決する課題ではある。そのようにはしていないのだ。

説明する方も、解説のパンフレットに沿って展開しているが、噛み砕かれていないのである。聞いている方も「そんな難しいこと解らない。」と言う雰囲気になってしまっている。これでは、いつまでたっても平行線のままだ。

「そのところをもっと詳しく、簡単に説明してもらえないだろうか。」と聞いた人は一人しかいなかった。ところが、さっきの繰り返しである。よほど変わって説明しようと思ったが、資料は不足しているし「そこまででしゃばることも無い。」と自重しておいた。

日々、僅かずつ、難しいことや理解されやすいように説明することに挑戦していかなければスキルアップはしないし、新しい技術は普及することは無いだろう。

ピーターの法則の中にあるように、どちらもそのレベルでストップしてしまうことになる。糸川秀夫さんは「10年のスパンで仕事を変えることで自分に負荷をかけてきた。」「時計の針を0に戻すと言う心の作業のことだ。」と言っていたようだ。彼のような優秀な人なら簡単に出来るだろうがなかなか出来ることではない。

ノーベル賞学者、益川さんと小林さん両教授のように同じようなレベルにあって個性豊かな人がブレーンストーミングすれば高度な発明や発見につながるけれど、一般的な会議においてはなかなかそんな環境がいつも揃うと言うことはまず無い。

 【参考文献 日本が危ない 糸川秀夫著 講談社】

 【参考文献 1日1発想366日、逆転の発想他】


「知恵比べ」の序文 [ブログ]

 風林火山の中で武田信玄(晴信)が海ノ口城を攻め落とす戦略はまさに山本勘助との知恵比べであった。大軍勢を持ってしても堅固な城と勘助の知略(泥壁の知恵、水の確保と敵の動きをチェックする方法、気象条件、雪が降ってきた。)等によって撤退を余儀なくされた。

海ノ口城の人たちも、武田軍の本体が撤退したという情報だけを信じきってしまったことより、勝ったと言う思い込みが信玄の奇襲という戦術によって打ち砕かれたといえる。

勘助の追い討ちのアドバイスも(奇襲という戦術が取れなくする可能性を秘めていたことになるだけでなく先の情報が確かな情報になる事を意味している。何回も言っている「情報の裏を取るということと」、「情報の精度をあげる方法である。」どちらも、現代版徒然草素描、参照)、来年の春までは攻めてこないだろうという考えが支配してしまった為に、援軍を返してしまったことも、「もうせめてはこないだろう。」という仮定の上に築かれた根拠のないおごりが、戦いに敗れた最大の理由である(勘助はこの期に及んで何を言いたいのだろう。と一歩退いて考えてみるという事はしなかった。また、警戒部隊の温存という作戦も敷いておかなかった。兵力の三分の一は常にその任に付けておくことである。もう三分の一は休息状態として祝勝会が必要ならば三文割に分けてやればよいではないか。)。謙虚になって人の忠告を聞かなければならないという教訓である(ましてや勘助は自軍の軍師である。)。

現在でも、多くの人は著名人や名のある人の提言は快く受け入れてしまうということや、誉めてくれる人の言う事を聞いてしまって結果的にだまされたということはどんな時代でも起こるものである。新規な投資話も、詐欺の多くの事件が連日の様に新聞やニュースになって駆け巡っているではないか。おそらく、信玄はこのような事を想定していたものと考えられる(人間ならば誰しも持っている判断ミスということ)。人間ならば誰しも陥りやすい錯誤だからである。だから、「シンガリを勤める。」と提案したのだろう。

そのときすでに彼の腹は決まっていたのである。少々の時間的な遅延作戦(味方に酒を振舞って相手が油断し始める頃合まで待つという方法と寒さの中で体温維持させることとモチベーションを維持させるということ。現代風に表現すれば作戦をオペレーションしたということである。)もまたその中に組み込まれたスケジュールであったのかも知れない。武田軍の中にすら、「敵方が攻めてこないのでシンガリを勤めると言い出したのだ。」という陰口を叩くものさえいた。

勘助もまた、「ここで攻めてこなければ信玄は真にうつけものだ。」ということをいっていたではないか。原作者が勘助に言わせたものか、史実となったものなのかは確信がもてない。原作者も史実を調べてかいているものと思われる。勘助も先の言葉で信玄が奇襲してくることは予想していたのであるが、周りに、其れを聞き入れる人がいなかったということではなかろうか。ここでもまた感性の問題が問われていることになりはしないだろうか。
   【ひし形のスクラム組んで武田菱 風林火山を旗印として】【歌で綴る旅日記より】
   【参考文献、「ジャンボを釣った人々または危機の管理学」私の著書、学の苦悩】

写真の加工は? [ブログ]

世話の焼けるお父さんだこと

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「お父さん、散歩の時間だよ」

「もう、そんな時間か」

「忘れちゃ困るよ。早く起きてよ」
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「階段の上り下りだって、たいへんなんだけれどなぁ」

「まったく、世話の焼けるお父さんだわ」

注 写真は連続で撮ったものではありません。少し大きな写真の中にそれぞれの口から噴出し  線を設けまして、4コマ漫画のように編集できないものかなあ。

  特殊なソフトが必要なのでしょうか。
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